ただ読みたいからというだけで本を読めるのはすてきだと感じた

読書で疲れたり、だるくなったりする。
たいてい、亡霊のせいだ。

それは両親、特に母に似たキャラクターが出てくるとき。
田舎の風景が広がるとき。
いかにも昔ながらの男女像が描かれるとき。
女性たちの井戸端会議が開かれるとき。
ページが温和な母性や家庭で満たされるとき。
酒や暴力に焦点が当てられるとき。
亡霊がゆっくりと現れ、私の肩に手を乗せ、体重をかけながら、頭の中に侵入してくる。

私は大切なことを忘れやすいので、自分に亡霊が訪れやすいことを忘れる。
読書中の頭痛が激しくなったり、その日の眠りが浅かったりといった反応で気づく。
医者は、なめらかなフラッシュバックと言う。
今と過去、自他の境界線がなくなり、細胞が空気に飛散していく感じになる。

読書好きな人が、「本が大好き」「昔から読書が避難場所だった」と言うのを聞くことがあるけれど、私は様子が違う。
少なくとも、手放しに安全な場所ではない。

春をして君を離れ - fisque's diary  2023年3月

 

相変わらず日本の小説やエッセイは読みにくい。
光景の身近さや想像しやすさから、なめらかなフラッシュバックが起きやすく、読む速度が落ち、どうでもよくなる。
ただここに来て(私にとっての)朗報である。
英語力が上がった。

中学からずっと英語は好きで、勉強していたが、この数年は読むのに行き詰まりを感じていた。
文法はやった、英文解釈もやった、翻訳スキルもある、あとはなんだ、単語か、となり、こつこつ英単語を覚えてきた。
合わせて、ネイティブの家庭教師を探して、細かい、本当に細かい疑問をつぶしてきた。

すると今月、なんだかするする読めるということが起こった。
聞くのもスムーズ。
上達の突然の実感についていけない。
昔からたまにこういうことは起こる。
実感にTOEICは必要ない。
ありありと、自分でわかる。
上級レベルでもまだこんなふうに来るんだな、そしてこれが今まででいちばん強烈だなと思う。

最近は、英語で読むといえばもっぱらミルハウザー。
辞書は日本語とはいえ、翻訳を用意せず、英語に浸って読む。
読み終わって、ああ楽しかったと思える。
日本語の直接的な危険を英語では感じない。
日本語で苦手だと思う描写も、英語だと外国語というバリアがあるらしく、まあまあ大丈夫だ(得意ではない)。

私は実家から逃れるために大学に行き、名古屋に来た。
私は日本語から逃れるためにずっと、英語を学んできたのかもしれない。
英語を使うとき、私は安心していて、自由だ。
英語で書いても、親族の誰にも伝わらなくてすむ。

私にとっての英語学習は、ただ知的好奇心を満たすような勉強じゃない、言語的亡命だった。
実体のない英語というものを、ぎゅっと抱きしめている。