アルファベットになりたくて

アルファベットになりたかった。

中学で英語を習った時、言葉というものを初めてまじまじと見た。
aとpとpとlとeの組み合わせがapple、りんごになった。
単語と単語の組み合わせが熟語や文になって、その組み合わせが段落になり、段落がまとまると文章になった。
単独ではほぼ意味をもたないのに、他と組み合わさることで意味が生まれて、拡張していくのがうらやましかった。
アルファベットみたいに生きようと思った。

それでほいほいと言葉が好きになり、作文で褒められて調子にのり、大学では言語学を専攻した。
高校までは、便宜上、次のふたつの意味は同じと教わる。
A: Mary gave a present to Peter.
B: Mary gave Peter a present.
だけど実は、細かいニュアンスが違う。
ピーターが贈り物を手にしたことを、Aは必ずしも含意しない。
確実に届いているのはBのほう。

言語学の先生が、「経済的に考えて、まったく同じ意味のものは存在しない」と言った。
同じに見えるものは、同じに見えて些細なニュアンスが異なるか、どちらかが衰退の途中にあるみたいな話だった。
「まったく同じものを存在させるのは、効率が悪い」
「何かしらの差異に意識的でいなさい」
違いゆえに存在できる、アルファベットの組み合わせたち。

木曜1限で、1秒も遅刻せず、年8回のテストにすべてパスしなければいけない必修の授業。
英語圏の学生でも苦戦するという、分厚い教科書をごりごり読む。
犬を愛する先生で、例文は犬だらけだったが、試験の過去問にパターンはなかった。
単位を取れなければ、どんな大手に就職が決まっていようと卒業を許可されない。
「山手線で先生に泣きついてもだめ」という恐ろしい話だけが語り継がれた。
私たちは必死でくらいついた。
先輩も同級生も後輩も泣いていた。
私は違う意味でも泣いていた。
うつくしい世界だったから。
アルファベットに近づけた気がした。

就活で面接までこぎつけ、夢を訊かれたら、「アルファベットになりたいんです」と言った。
人や仕事と組み合わさることで、意味や物語を作れる人になりたい。
不景気で、それはもうばんばん落とされたけど、私が会社を、会社が私をおもしろがる縁に至った。
人事部に配属され、自分の面接評価を見る機会があった。
ある面接官は「とても優秀」、別の面接官は「とても変」と書いていた。
私の評価はいつも、極端に振り切れる。

今、アルファベットみたいに生きていられるのがうれしい。
私の生活と仕事は、いい意味で境目がない。
生活することが仕事になり、仕事することが生活になるような、かなり自由なもの。
私の自由っぷりに触れた仲間が、その人らしさを表現して、のびのびと協働してくれる。
真面目に話したり、けらけら笑ったりしながら、お互いに新しい意味を見つけたり、与えたりする。

世の中にないものを作っているから、台本はもちろん、文法も辞書もない。
失敗する確率のほうが大きくて、先行きは不安だけど、今月、今週、今日、今、楽しく「これをやっちゃおう」と思えることがあるのがしあわせ。
そう思えるような人たちと、今のところ、たぶん、熟語や短文くらいまでは作れているのがしあわせ。
胸を張れる、ひとつの物語まで辿り着きたい。
読んだ人が解釈を広げて、また別の物語を作れるようなところまで行きたい。